1本目のゴーヤを収穫しました。体長15cmほど。特売なら100円前後で売っている市販品の1/2〜1/3程度の大きさです。
現時点であと5本ほど育ってますが、収穫目的だとしたら、全く割りに合いません。日除け目的も、気休め程度の効果しか得られていません。育てる手間そのものを楽しめなければ、意味がない作業です。
長岡先生の「手段が目的となることを趣味という」が思い出されます。
この言葉が5月6日の日本経済新聞1面コラム「春秋」で引用されていたことを、最近知りました。ここでは「手段が目的化することを趣味という」と記されていますが、先生は「目的化」という言い方はしていなかったと思い、原典を探してみましたが、、、
「趣味とは手段が目的となることである」(「開拓者 長岡鉄男」p.220)
「過程を楽しむことを趣味という」(「オーディオ・クリニック」p.24)
「趣味とは過程を楽しむこと、手段が目的となること」(「観音力アンソロジー」p.205)
「手段が目的となることを文化という」「過程を楽しむことを趣味という」(「いい加減にします PART II」p.250)
「趣味というのは過程を楽しむことであり、手段が目的となることである」(「いい加減にします PART IV」p.194)
と、私が記憶していた通りの表現はみつかりませんでした。ただ、こうやって並べてみて、先生にとってもこだわりのある言葉であったことが改めて伺えました。
ゴーヤはチャンプルーにして、おいしくいただきました。